岐阜新聞 連載コラムに牧成舎の社長 牧田が、8回にわたって寄稿したコラムを紹介させていだきます。

■1970年 大阪万博の夏に見たもの

小学五年生の夏休み、心待ちにした大阪万博。岡本太郎の太陽の塔にワクワクし、アメリカ館でついに見た月の石。松下館や日立館などたくさんのパビリオンが宇宙船のように見えました。夕方に入ったレストランでは、トレイを自分で手に持ち、目の前に並んだ希望の料理を頼むと、すぐに器に入れて渡してくれました。パイナップルを乗せたハンバーグ入りスパゲティとジュース、それにデザート。最後に会計です。飛騨では経験したことのないカフェテリア方式に気分が高揚しました。地元の高校を卒業後、東京の大学で外食産業に興味を持ちました。中でも東証一部上場を果たし、それまでいわゆる水商売と言われていた業界を「産業」と位置づけた福岡のロイヤル(ロイヤルホスト)には羨望の思いがありました。ロイヤルの躍進は、万博に出店した時に導入したセントラルキッチンによるものと知り、夕日の中で食べたパイナップル入りスパゲティを思い出し、“夢と未来”の大阪万博が私の中で特別なものとして結び付きました。実家は飛騨古川で「牧成舎」という牛乳・乳製品を製造している牛乳屋を営んでおり、東京かぶれの私は、ミントチョコが大好きでサーテーィーワン・アイスクリームのフランチャイズチェーンに入りたいと電話したところ、「賃貸物件でなければ飛騨高山でも可能と言われ、即計画。詰めの最後に二、三品のオリジナルアイスを売りたいと伝えると、即答でNO!と言われ、落胆する私に父は言いました。「何かに属するのではなくオーナーになることを考えなさい」と。

■飛騨高山博 夢アイス

日本一美味しいと思うアイスクリームがある。こんな冒頭から始まった地方紙の記事で、牧成舎のアイスは飛騨の人々の話題になりました。明治三十年、牧田源兵衛は高山市丹生川町新張で酪農を始めました。当時、先進的で教育熱心な豪農でありましたが、親戚の製紙工場の倒産により田畑を失い、一家は東京、京都、台湾へと散って行きました。大正十年に祖父は飛騨古川で「愛成舎」と言う牧舎を買い求め、「牧成舎」と改名しました。父の伯母の牧田きせは日赤本社で山県有朋や乃木希典の介護がきっかけで、海外での看護婦生活を送っていたため、広い世界に目を向けた話題が豊富な家だったそうです。そんな環境で育った父昭信は若い頃北海道で食べたアイスクリームに強く感銘を受け、自分のアイス作りを夢見ていました。そんな父の後押しもあり、昭和六十三年六月十二日、アイスショップ“ハンプティダンプティ”はオープンしました。牧成舎のアイスは、生乳を自社で低い温度で沸騰させて濃縮した原料で作ります。牛乳の美味しさを濃縮して作ることを考えたのは、乳固形分を高めて、お子さんからお年寄りまでがいつも安心して食べられる食品としてのアイスクリームを作りたいという父のこだわりからです。「素材の良さだけを生かすことが大切だ、でも独自の方法で手を加えることでさらに美味しくなるものもあり、それが牧成舎のオリジナリティーだと考える」。高山博の出店の成功で、父の「夢アイス」は東京販路のチャンスをつかむ事になります。

■日本の夏甦れ 掌モナカアイス

昭和六十三年十二月、新宿伊勢丹で行われた「家庭画報 本物印の食べ物フェア」で牧成舎のアイスクリームは高く評価され、同百貨店のギフト採用になりました。二年目のお中元ギフトは、牧成舎だからこそ出来る「和」のアイスの形にしよう。手のひらにのせてどこか心和む形にしたい。昔、風鈴の音を聞きながら縁側で冷えたスイカやキュウリをかぶりついて食べたように“頬張るモナカアイス”を作りたいと考えました。芳ばしいオリジナルのモナカの皮が欲しくて、当時サーティーワンアイスクリームのコーンを焼いていた義父の「ノバ」の社長に相談しました。「うちの機械で一日焼くと四トン車いっぱいにもなる。皮も古くなると参加して美味しくない。行商していた若い頃、古川の奥の角川の人たちに親切にしてもらった。どうだ、ワシが教えてやるから必要な分、自分で手焼きしなさい」。ノバの社長は、牧成舎のデザインをもとに焼き型の準備から設置、原材料の手配すべて段取りしてくださいました。御夫婦で来社され、私に焼き方まで指導してくださいました。その様子を見ていた父は、私にお金の入った封筒をそっと渡しました。「教えて欲しいと言って教えてもらえるものじゃない。お前は、あの人の座さんをもらったんだ」。この皮のお陰で牧成舎は二十年近くモナカアイスを作り続けてこれたのです。包装の和紙には、こう書かれています。人の世のまことの味はアイスもとかす温かき心ふれあふときにしみじみ

■「白の命」と酪農家たち

乳牛から絞られる牛乳は、乳牛が自分の命を削りながら絞られるものです。その命を私たちは「牛乳」として飲んでいます。昔は、「牛乳」は貴重品で薬でもありました。私は小さな頃から、動物は苦手でした。ましてや「牛」なんて。でも、「牛」を飼うことになり、三百六十五日世話をすることの大変さを改めて感じます。ただ言葉をしゃべらないだけで、「牛」の現場で起きていることは人間界と何も変わりません。牛舎はメス牛の集団生活の場所です、いじめもあります。餌をくれる人には媚び、横暴で乱暴な牛もいます。餌の食べ方も好きなものから先に食べ出すもの、ボロボロこぼすもの。育ちがわかります。死産を経験した母牛が、しばらくして産み落とされた子牛を我が子と勘違いし、本当の母牛と奪い合う愛おしい場に出会うこともあります。産後の肥立ちが悪く、立ち上がれない牛が出たこともありました。牛が立てないことは「死」を意味します。栄養剤・灸などいろんな方法を試みました。飛騨市の獣医さんは、立てない牛を鎖で吊り上げ何とか立ち上がるきっかけを作ろうとされました。それでも牛は横になってしまいます。「今度は人間が倒れる番になる」と、心配をしてくれる酪農家の仲間たち。あきらめ切れない父に、みんなが気長に付き合ってくれました。その甲斐あって牛は立ち上がりました。八日目に。牧成舎の自慢は、四軒の酪農家とともに作る低温殺菌牛乳『白の命』。六月一日は世界牛乳の日です。元気のためにゴクンと牛乳を一本飲もう。

■牛乳豆腐とモッツァレラ

私は小さい頃牛乳屋は嫌いでした。学校帰り、「お前んちの牛乳は腐ってんやぞ」。子供心に傷ついたものです。今なら、「まともな食べ物なら腐って当たり前」と言い返すのでしょうが。牛乳も好きではありませんでしたが、時々食べたくて仕方のない大好きなものがありました。それは、父が作ってくれた『牛乳豆腐』です。温めた牛乳に酢を加えて固めただけのものです。出来たては甘くてホカホカ、生醤油を掛けて食べると格別のものになります。東京での学生時代、懐かしく思い出し、食べたくて、スーパーでパック牛乳を買い、自分で作ってみました。驚いたことにほんの僅かな量しか出来ませんでした。昔、父は『牛乳豆腐』を工場から抱きかかえて持ってきてくれました。余乳対策だったのでしょうが、なぜかこの時、私には実家に「牛乳」たくさんあるという事は豊かさの証のような気がしました。平成十五年、牧成舎ではフレッシュチーズ作りを計画。私は社員とイタリア・ミラノへチーズの練り機を購入しに行きました。練り機の製造元・ディマ社の息子さんがご招待してくださったレストランの「モッツァレラチーズ」は、ミルキーで肌理が細やかで柔らかく、でも外側は弾力を感じるものでした。これだ!と思い、社員と共に試行錯誤を繰り返しました。最初に「この食感を大切にしなさい」と応援して下さったのが、銀座レストランキンハチの熊谷氏です。デビューはマンゴーカクテルソース掛けでした。現在、牧成舎のお薦めは岐阜・山川醸造の溜まり醤油掛け。子供の頃の原体験からは一生離れないもののようです。

■酪農教育ファームのきっかけ

平成十四年秋、酪農教育ファーム認証牧場の組織・地域交流牧場全国連絡会主催の「フランスのグリーンツーリズムと教育ファーム」の研修視察旅行に参加しました。その前年、ある方が「チーズとジェラート」のテーマでイタリアを視察され、本場を知ることは大変勉強になったと話されました。翌年、要望を出した私のもとに案内が舞い込んだのは『グリーンツーリズム』と、聞き慣れない『教育ファーム』。当地で加工や販売の現場を見たいという希望がはずれましたが、こんなことでもなければ欧州へ行けないと思い、申し込みました。フランスの代表的教育ファームネットワーク「サアヴォワール・ヴェール」の視察や元会長のマダムテェーヴの熱心な説明を受けることが出来ました。また、ノルマンディー地方の美しい風景・カマンベールチーズ工房・シードル農家見学・お城のような農家民宿「ジット」にお宿泊。豊かで美しいフランスの農村地帯はまるで映画の一場面のようでした。意外にも私の心に強く映ったのは、日本から一緒に出発した酪農家のお嬢さん達が口にした言葉です。「酪農をやっているうちのお父さんって、カッコイイ!」。酪農家がカッコイイとは、当時の私には衝撃的な言葉でした。日本に帰ってその交流牧場の酪農家を知る機会があり、何かに属することで安定を求めるのではなく、独自の道を切り開こうとする『開拓魂』の話を聞き、その姿勢に感銘を受けました。そこには酪農家のアイデンティティーがあり、これが酪農教育ファームを始めるきっかけになりました。

■アイスブレイクの瞬間

昭和三十年代からの国の土地改良事業の一環として、旧古川町の中野区に酪農団地が出来ました。その酪農経営は紆余曲折がありましたが、今日に至っています。平成十六年、中野区長から堆肥舎建設説明会に、私に出席するようにという連絡が入りました。「俺たちは今まで十分我慢してきた。勘弁してくれ」「夏の暑い日に戸を閉めて夕飯を食べる者の気持ちが分かるか」「所詮、通い農家ではないか」。『針のムシロ』とはよく言ったものです。この地域で時代と共に生きていた父があの場に居たら、聞くことのなかった言葉かもしれません。でも、私には父と同じような歴史はありませんでした。翌年、酪農家のメンバーは「モーモー体験スクール」という補助事業を受け、地元の小学校一、二年生を招いて体験学習を行いました。雨の日、バスから降り中野の丘を傘をさして元気に歩いて来た子供達を、住民の方々は喜んで迎えて下さいました。もともとこの地区は飛騨市の中でも教育熱心なところでしたので、このことがきっかけで市に環境整備の要望書を上げていただき、行政も理解を示して下さいました。平成十八年春、牧成舎は五頭の乳牛を飼うと同時に酪農教育ファームの認証牧場の認定を受けました。住民説明会は、フリーバーン方式で堆肥のベットの指導をして下さった高山市丹生川町の藤原さんにお願いしました。地元の人たちは堆肥が臭わないことに驚き、たちまち質問の嵐となりました。新しい手法を試みることで、地元の方々との距離がイッキに縮まった瞬間でした。

■涙の教育ファーム事例発表会

平成二十一年二月六日、農林水産省のモデル事業に採択された「飛騨中野教育ファーム推進協議会」を代表して、私は名古屋市の能楽堂で事例発表をしました。タイトルは「体感・触感により地元を愛する心を育む 教育ファーム立ち上げの思い」。約三十分の時間で、一年間を通しての活動をパワーポイントで紹介しました。▽よろめきながら素足で体験した田植え▽汗を拭きながらジャガイモやトマトを収穫する子供達の笑顔▽大きな五升釜でご飯を炊いて下さるおばさん達▽手作り絵本で食育の話をする飛騨市の管理栄養士さん▽朴の木に焼き鏝を使って看板づくりを指導する先生達▽早朝の搾乳体験ー。いろんなことが思い出されました。過去には酪農の堆肥の臭いの問題がありましたが、この地区の水田を守っていきたいと考えていた団塊の世代の「朝霧ファーム」の四名が、『共存共生』への歩み寄りをして、米や野菜を作って子供達に食の大切さを伝えようと立ち上がってくださいました。循環型農業の「鮎の瀬農園」を作るために土づくりから始まりました。その朝霧の面々も会場に来ています。農園のオープンを記念して中野の丘に立てた鯉のぼりが眩しく、その下に朝霧の人達の姿がスクリーンに映った時、私は胸がいっぱいになりました。朝霧のメンバーの一人が、この発表会の前にポツリと言いました。「これからは心配しんでもいい。牧成舎は俺達が守るから」。数年前、門前払いされたあの日のことを思い起こせば、誰でも嬉し涙は流れます。朝霧の皆さん、ありがとう。

■明日の『牧成舎』に向けて

平成十六年、私は『牧成舎の社長』という役どころをいただきましたが、社長の『器』ということに随分悩みました。強リーダーシップを持つ父からすると、心もとないと思っていたに違いありません、多分、今でもそうだと思います。事実、「お前大丈夫か?」と心配れる方もあります。世間には「女社長」と呼んで好奇の目で見る人もいます。ある日、会社の経営分析で、【強み】と【弱み】をいろいろ挙げた時、【強み】に「社長が女性」と記してくれた社員がいました。このことが、肩ひじ張らず、自然体で女社長の大役を果たそうと考えるきっかけになりました。それまで私は、牧成舎のブランドイメージは製品作りから発生するものだと思っていました。でも本当は、牧成舎という会社そのものがブランドであることが大切なのだと考えるようになりました。会社には守り続けてきた歴史、いわばDNAがあります。これからも同じように歩み続けていきたいと思います。現在、牧成舎ではISO 9001の認証取得に向けて全社的に努力しています。牧成舎は「安心・安全で美味しい製品作りとサービスの提供」をうたっています。でも私は、とりわけ『美味しい製品作り』を大切に考えたいのです。それは牧成舎のアイデンティティーそのものだからです。そして将来、地域の人々から牧成舎が「地域の誇り」と言われるようになりたいと考えています。そのために『チャレンジ精神』と『感謝の気持ち』を忘れることなく、地域とともに生きていきたいと思います。